天国の夢はもう見ない。    6.







 水野は重い足取りで帰路に着く。
 唇が震えていた。足が重かった。手が汗ばんでいる。
 シゲの最後の表情を思い起こすと、このまま取って返したいような、走り出して帰りたいような気分に駆られるが、そのどちらも出来る筈がない。
 シゲは、きっと自分がまたシゲを許してしまうと思っていたのだろう。だから、”消えろ”なんて言われて、いつものポーカーフェイスも咄嗟に作ることが出来なかったのだろう。
 張り付いた笑顔、見開かれた瞳。
 水野の胸が鈍く疼く。
 あんなことをされて、自分がシゲを許せないのは当然な筈で、その上であの台詞を吐いたとしても、十人中十人がきっと水野の態度を正当だと言ってくれるだろう。
 それなのに疼いてしまう情け無い胸を押さえて、水野は頭を強く振る。
 それでもどうしても沸いてくる罪悪感がどうしようもなくて、水野は走り出しそうになるけれど、そうしてしまったら、自分が悪いことをしたと認めてしまうことになりそうで、水野はただ脚を引きずるようにして歩くしかない。
 どこまで自分は甘く、お人好しなのだろう。
 吐き気がしてくるほどだ。

 シゲは壁にもたれかかっていた身体を起こす。そして、しばし逡巡した後で、再び校舎のほうへと脚を進める。
 寺に帰って、和尚や他の下宿人に顔を合わせるのも嫌だったし、夕方のお勤めなどする気分ではない。ましてや、その理由を説明するなんて億劫過ぎる。
 校舎はもう既に施錠されていて入れないことは分かっていたから、シゲは部室棟の方に歩く。
 部室棟の裏手は、ちょっとした茂みが生い茂っている。
 シゲはガサガサとそこに入り込んで、大きな溜息を一つ吐いてそこに座り込んだ。
 いつの間にか止めてしまった煙草が、今は欲しくて堪らない。
 誰もいなくなった学校とうものは、昼間の生徒たちの喧騒をその内側で反響しているようだ。シゲの脳裏にも、今しがた言い放たれた水野の言葉が反響する。
『消えてくれ』
   ズボンのポケットを探って見つけた、キャンデーを取り出して口に放り込む。
 レモン味が口に広がって、シゲは誰ともなしに呟いた。
「甘・・・」
 この飴も、自分もだ。
 水野にあそこまで決定的に拒絶されるまで、気付かなかったのだ。
 自分が、水野に甘えていたことに。
 水野に徹底的に憎まれたいなんて、自分が水野に好かれているという自惚れがあったせいだ。
   去年自分が水野を裏切っても、彼は許してくれたから。
 ”諦め”という形でも、それでも水野はまたシゲを許容してくれたから。
 だから、今回だって、とどこかで考えていたのだ。何があっても、結局のところ水野は自分を許すだろうと。
 憎まれても、その内許されるなんて高を括っていた自分自身に、ついさっき気付かされた。
 水野のあの言葉と態度に、自分で驚くくらいショックを受けたのは、言われる準備が出来ていなかったからだ。
 思い切り憎まれたいなんて言っておきながら、本当に拒絶されることは真剣に考えていなかった証拠だ。
「なっさけな・・・」
 シゲは方膝を立てて、そこに額を当てる。
 水野のプライドが高いことは知っていると思っていたのに。そんな彼が同性の自分に組み伏せられて、怒らない筈が無かったのに。憎まれない筈が無かったのに。
 それこそが望みであって、そうなった筈なのに、実際そうなってみれば、傷ついている自分がいる。
 なんて自分勝手。
 あの青くて冷たい激情に触れたくて、それこそ水野の本当の姿だから、そこに触れさせてもらいたくて、そこに入れて欲しくて。
 でも、そこに踏み込むということは、そこ以外の水野の世界に触れることを許されなくなるということとイコールであることに、考えが及ばなかった。
 分からなかったわけではなく、自分に当てはめられなかった。
「はぁーーーーー・・・」
 シゲはただ深く溜息を吐くと、そのまま瞳を閉じた。
 夜が深くなると共に気温が下がってきても、シゲはそのまま動かなかった。
 ここのところ停滞していた雲が、あの時と同じように泣き出しても、シゲは動く気になれなかった。


   水野はまるで砂を噛むような気分で夕食を摂り、リビングでどうでもいいテレビ番組を眺めながら、ホームズの腹を撫でてやっていた。
 ホームズはただ嬉しそうに、水野に腹を見せて尻尾を振っている。
 水野はその様子に目を細めながら、明日からの部活に頭をめぐらせると、気が滅入ってきてどうしようも無い。  最早シゲとは事務的な会話すらできそうにないのだ。
 自分たちの確執が、部にそのまま反映してしまうことは分かっている。
 いくら風祭やそのほかの部員が上達してきているとはいえ、水野とシゲがその要であることは否定できない事実なのだから。
「どうしようか、ホームズ・・・」
 深く溜息を吐きながらホームズの毛並みを逆なでしてやる。
 わふ?と首を傾げながら水野を伺うようにしてくる愛犬に、水野の眉間の険しさがふと緩む。
 そこに、まるでタイミングを見計らったように電話が鳴った。
 水野は腰を上げて、受話器を取る。
「はい、水野です」
 少し作った声で出た水野の耳に、聞き慣れた、けれど驚くべき声が電話口から聞こえてきた。
『水野君?あの、僕草晴寺の萩本だけど・・』
 遠慮がちな落ち着いたその声と口調に、水野はすぐにシゲの下宿人仲間である、眼鏡をかけた青年を思い浮かべることが出来た。
「え?萩本さん?」
 けれど、彼が水野に電話してくる理由などこれっぽっちも思い浮かばなくて、水野は困惑する。
 電話口の萩本からも、水野と同じくらい困惑した様子が伝わってきった。
『ごめんね、突然。あの、シゲがそちらにお邪魔してないかな?』
 突然出てきた名前に、水野の胸中でどきりと心臓が跳ねる。しかしそれに気付かれないように、水野は努めて平静な声を作った。
「いえ、いませんけど・・・」
 どうかしたんですか、と言う台詞は喉元で飲み込まれた。
 自分がシゲのことなど気にする必要など無いはずだ。
 シゲに”消えてくれ”と望んだのは、自分なのだから。
『いや、まだ帰ってなくて・・・』
 シゲなら珍しいことではないだろう。
 水野の言外の声を聞いたかのように、萩本が苦笑する気配が伝わってきた。
『いや、うん、普段なら全然気にしないんだけどさ、僕も他の連中も。ただ、最近あいつ様子がおかしかったから。ちょっと、心配で、ね・・』
「おかしかった・・?」
 呟いてしまってから、どこかでもう一人の水野がそれを叱咤した。余計なことを聞くな、シゲのことなどもうどうでもいいじゃないか、と。
『うーん、何があったかは話さないし、それを隠そうとするから知らないんだけど。でも、ほら、僕らだって伊達にシゲより年取ってる分けじゃないからさ。何となく、気になってたんだけどね・・』
 萩本の、外見通りに優しい声が受話器越しに水野に響く。
『水野君のところじゃなかったら、もう分からないなぁ・・。シゲの奴が他に行くところを持ってるとは思えないし・・・』
 独り言のようなその萩本の言葉に、水野は思わず眉をしかめた。
「そんなことないでしょう?シゲなら、誰とだって知り合いになれるし、泊まるところくらい・・・」
『様子がおかしいときに、心許せない他人の下に転がり込んだって、疲れるだけだろう?』
 被されるようにして告げられた言葉に、水野は言葉を無くす。
 そんな言い方、まるで・・。
『シゲが心を許してた相手なんて、水野君くらいしかねぇ・・・。だって、あいつが自分から寺に上げたのって、水野君が初めてだったんだよ』
 水野は危うく受話器を落としそうになった。それを慌てて持ち直した頃には、萩本はもうお礼を言っているところだった。
『ごめんね突然。もう少し当たってみることにするよ。じゃぁ』
「あ、はい・・・」
 水野は間抜けにもそんなことしか言えず、耳元で通話が切れたことを示す音がしても受話器を中々下げられなかった。
「たっちゃん?誰から?」
 真理子が台所から顔を出してから、水野はゆっくりと受話器を置いた。
「たっちゃん?」
 再度呼ばれて、水野はゆっくりと振り返る。そして、まるで鸚鵡返しに答えた。
「シゲの下宿先の人・・・」
「あら、何て?」
 真理子は眉をしかめて口元に手を当てる。
「シゲが、まだ帰らないって・・・」
 水野が告げた瞬間、真理子の顔から血の気が引いた。それを見て、水野は慌てて付け足す。
「いや、でもシゲならよくあることだって・・」
「いつも通りなら、下宿先の方がわざわざ電話してくることもないでしょう?」
 誤魔化すことは許さない、というように強く見つめられて、水野は渋々最近のシゲの様子がおかしかったらしいということを告げた。
「まぁ、じゃぁ、心配ね・・・。探しに行こうかしら・・」
「母さん、危ないよ」
 まだだ夜中等う分けではないけれど、女が一人で歩くにはこの辺の治安は信用できない。
「それに、シゲのことだから・・」
 平気だと言いかける水野を、真理子は厳しい声で封じる。
「シゲちゃんだってまだ中学生なのよ?あなたと何ら変わらないじゃない。大人数で絡まれたりしたら、適う分けないじゃないの。シゲちゃんは万能じゃないのよ?何かに巻き込まれていたりしたらどうするの」
 真理子の当たり前の言葉。その言葉が、すとんと水野の中に落ちた。
 シゲだって中学生だ。水野と同じ。
 まだ十四・五歳の、子供だ。同年代や高校生との喧嘩にさえ勝てても、それでもまだ骨格の安定しない自分と同じなのだ。
 突然水野の頭からざっと血の気が引いた。
 シゲの事なんかで血の気が引くなんて、と心のどこかで何かが言ったけれど、もう水野はその声に耳を貸してる場合ではなかった。
「母さん、俺ちょっと捜してくる」
「ホームズを連れて行きなさい」
 飛び出しそうになる水野に真理子が告げると、呼ばれたことが分かったのか、ホームズが飛び出してきた。
 水野は急いでホームズにリードを付けると、シューズの靴紐を固く縛って、玄関の扉を開けた。
「雨・・・?」
 霧雨が降り出していた。
 けれど、傘を差せばその分走りにくくなるから、水野はそのまま走り出した。

   たった数時間前に自分で”消えろ”と告げて切り捨てようとした人間を、雨に濡れながら必死で探しているなんて、滑稽過ぎて笑う気にもなれない。
 あんな形で自分を裏切って傷つけた人間の安否を心から気にかけている自分は、本当に底抜けに阿保だと思う。
 でも、息が切れても立ち止まろうと思えない。
(仕方無い)
 去年思ったことを同じように、また思う。
(仕方無いじゃないか)
 切り捨てられるくらいなら、きっと去年のうちにやっていた。
 風祭とはれる位のお人好しだ。学習しない、ただの馬鹿だ。
 また、繰り返されるかもしれないのに。
 水野は、ふと足を止めて顎を伝う汗を拭う。
 シゲの行きそうな所をさっと覗きながら、いつの間にか学校まで来ていた。
 今日最後に別れた場所だからだろうか。何となく気になって、水野は閉じてしまっている門に舌打ちして、裏にまわることにした。
 裏にも門はあるけれど、何故か表よりも低いのだ。
「ホームズは、ここで待っててくれよな」
 きゅうん・・よ鼻を鳴らすホームズに”待て”をさせておく。それでも万が一のためにリードは結ばなかった。
 水野は雨で滑る鉄に苦戦しながらも、何とか構内に侵入する。
「うわ・・っ」
 足を滑らせて落ちるようにして着地して、水野は腰を打つ。
「たた・・」
 これで見つからなかったら、本当に単なる間抜けだと思いながら、水野は腰を上げる。
 裏門から真っ直ぐ行けば部室棟だ。
 部室には鍵を掛けたから、そこにはいないと思うが、とりあえずこの茂みを越えようと思い、水野はそっと移動する。
「はぁ・・」
 歩きながら、汗の上から染み入ってくる雨に、水野は嘆息する。
 何だって自分はこんなことをしているのだろう。
 本当に馬鹿馬鹿しい。
 でも、真理子の台詞に気付いてしまったから。
 シゲだって、同じなんだと。
 水野に出来ないことも大概出来る男だから、何となく失念していたけれど、シゲだって一つしか違わない中学生なのだ。
 一つしか違わないということは、三上と同い年ということだ。
 水野は、三上が自分よりかなりの大人だとは思えない。渋沢は、まぁ、標準から外してしまってもいいだろうし・・・。
 だからといって、シゲのあの行為が認められるわけは無い。無い筈のだけれど。
 そこで水野は深く息を吐く。
 シゲだって自分と変わらないと思うと、シゲにも自分みたいにどうにもならない気持ちとかあったのかもしれない、なんて思えてしまう。
 何もかも計算した上での行動ではなくて、自分でもどうしようもない何かを抱えることもあるのかもしれない。
 そう思ってしまったらもう駄目だった。
「馬鹿だよな」
 限りなく。どこまでも。
 でも。
 ぶつぶつと呟きながら茂みを掻き分けていると、斜め前辺りからふいに声をかけられた。
「誰か居るん?」
「−−−−−−−−−!?」
 水野は危うく上げそうになった悲鳴を飲み込んで、大きく深呼吸してから、声のした方に目をやる。
「・・・シゲ?」
 今の、独特のイントネーションは。
「・・・・・・・・・たつぼん・・?」
 それで確信する。シゲ以外でそんなふざけた呼び方をする人間はいない。そんなふざけた呼び方を許した人間はいない。
「シゲ!!」
 水野が声のした方に進んでいくと、濡れた草の上に座り込んだシゲが居た。
「・・・・・・・・何やってんだよ・・・・」
 思わず声が低くなる程、シゲは間抜けな表情をしていた。
 ぽかんと顔を上げて、目を見開いて、口を半開きにして水野を見上げている。
 水野はふいに泣きたくなった。
(シゲだって、こんなにも、ガキだ・・・・・)
 同じ下宿先の人に、様子がおかしいのを隠しきれない程度には。
 真理子に、まだ中学生だと心配させる程度には。
 そして、水野に拒絶されて傷ついたのを垣間見せてしまった位に。
「萩本さんが、心配して、電話寄越した・・・」
「んで、探しに来たん・・・?」
 シゲの頬に、僅かな笑みが浮かぶ。
「そうだよ・・・」
 水野は舌を噛み切りたくなった。自分のではなく、目の前のガキのを。
「傘も差さないで?」
「邪魔じゃねぇか」
 シゲの笑みが深くなる。そして、堪えきれないように方を震わせ始めた。
「おま、夕方自分が何て言ったか、忘れたん・・・?」
 くすくす、ふ、くくく・・・と笑いを堪えるシゲに、水野は思い切り拳を振り上げた。
「悪かったな!!」
 そのまま振り下ろして、シゲの後頭部を殴りつける。
「っっったぁーーーー!!」
 頭を抱えるシゲに、水野は怒鳴りつけた。
「心配掛けてんじゃねぇ、このガキ!」
 いつもなら、シゲが水野に言ってきた台詞。
 肩で息をする水野を見上げて、シゲはおもむろに立ち上がった。水野よりも僅かに高い距離から目線を落として、にしゃりと笑った。
「心配してくれたん・・・?」
 水野がいつもなら目線を逸らしてしまうようなその場面で、水野はしっかりとシゲを見据えた。その瞳の中にはシゲが映っていた。
 暗がりでも、シゲはちゃんとそれを確認した。
「仕方無ぇだろ。・・・・・他の奴なら、放っといた」
 その頬は、走ってきたせいと今怒鳴ったせいで雨の中でも紅潮していた。
                 





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   だから、どこまで続くんだ・・・・。涙。下宿先の方の名前は、当然捏造。