水野は、シゲと共に草晴寺まで帰った。 寺の人間たちは皆で出迎えてくれはしたけれど、何を聞くでもなく、ただ和尚が二人の頭を拳で殴った。 「って!」 「ったぁ!」 水野は何で自分まで殴られるのか分からなかったが、その後で和尚が風呂を勧めてくれたので、水野は借りて帰ることにした。 「二人で一度に入ってしまえよ」 「え」 寺の風呂は、下宿人も居るからか広い。二人くらい余裕では入れることは水野も知っている。 けれど、今シゲと二人ではいるのは勘弁してほしかった。 それなのに。 「ええやん、たつぼん。追い炊き機能の電気代も馬鹿にならへんのやで?」 シゲがそんなことを言うから、半ば押し切られる形で、水野はシゲと共に風呂場まで連行された。 学校で会ってから、一度も自分と目を会わせようとしない水野に、シゲは人知れず胸中でだけ嘆息する。 仕方の無いことだとは当然思っている。 あんなことをして、”消えろ”宣言までされて、それでも探しに来てくれたことを思えば、これ以上のことを期待するのはいくらなんでも図々しい。 それでも、想像以上に堪えた水野からの決別の台詞の後で、水野自ら探しに来てくれれば、嫌でもシゲはまた付け上がりそうになる自分に気付く。 (あぁもう、最悪やん俺・・・) どこまで水野に甘えるつもりなのか・・・。 しかし、水野も大概甘い。本当に。 こういう風にするから、シゲはまた水野の機嫌を取れば許して貰えるんじゃないか、とか思ってしまうのだ。 「・・・てっ」 湯船に漬かってつらつらと考えていたシゲは、小さく発せられた水野の声に、我に返る。 洗い場に屈んでお湯をかけている水野の背中に、赤い擦り傷が見えた。 どきり、とする。 間違いなく、あの時自分がつけた傷だ。まだ、消えていなかったのかとショックを受けて、ショックを受けたことにまた凹む。 何故、もう消えていると思っていた?水野が痛いという表情をしていなかったからか。 「すまん・・」 「なにが」 水野は無表情で振り返り、シゲとは距離をとって湯船に漬かる。 確かに、二人で入っても余裕のある風呂だった。 「あん時の、こと、俺、謝ってなかったなぁと思て・・・。まだ、傷あるんやね」 水野はお湯にの中で肩を鳴らす。 「なぁ、俺さ、今日泊まってくから」 風呂場に響いた申し出に、シゲは驚く。 水野は、お湯を掬っては零し、静かに呟く。 「だから、ちゃんと聞かせろよ。何で、あんなことしたのか、さ・・・」 その言葉に、シゲは眩暈すら感じた。 水野のその潔さに。その、甘さに。 傷ついたなら、相手の都合など考えずに、切り捨ててしまえばいいのに。 きっと彼は話を聞いて、納得いかないまでも理解したなら、相手を許してしまうのだろう。去年のあの時みたいに。 「・・・・・・。うん、聞いて」 それでも、そこに縋ってしまうのだ、自分は。 風呂を上がってみれば、既に和尚が水野宅に電話をかけていた。 何一つ聞いていないのに直感的な何かでもって、水野とシゲに話し合いが必要だということを察する和尚をさすが、と思った。 「で?」 まだ髪から雫を滴らせながら、水野はシゲに向き合って腰を下ろす。 万年床の上に同じように腰を下ろして、シゲはがしがしと乱暴に髪を拭いてから、その手を止めた。 「あんな、俺、青い目が見たかったんや」 「・・・・・脳外科に行け」 間髪入れずに告げられる突込みに、懐かしいような心地良さを感じながら、シゲは苦笑して片手を上げる。 「いや、あんな、うん、言い方が悪かった・・。えっと。俺な、お前のむちゃくちゃ怒っとる顔が見たかってん」 水野は途端に眉根を限界まで寄せる、それでも、先を促すように黙っていてくれる水野に感謝しながら、シゲは続ける。 「青く燃えてて、心の底から怒っとる。そんな目が見たかったんや」 水野の毛先から雫が垂れる。それがシゲの貸したシャツに吸い込まれていく。まるであの日のコンクリートに沁みる雨のように。 「怒らないわけ、無いだろう・・」 水野が押し殺したような声で呻く。 「うん。それが見たかったから、ええんやけどな」 「話が見えない」 結局シゲは、自分を好いているのか嫌っているのか全く分からなくて、水野は混乱する。 「俺なぁ、たつぼんに一遍、思いッ切り憎まれてみたかったんやわ」 やっぱり嫌われていたのだろうか?思わず拳を握る水野に、シゲは苦笑する。 「俺が部活辞めた時な、たつぼんめちゃ怒ってくれたやん。そん時の顔がな、忘れられへんかった。やのに、たつぼん、俺んことすぐ許してまうから。やから、一度思い切り憎まれて、お前の一番深いところに触ってみたかったんや」 まるで、”カブトムシが見てみたかった”なんて台詞と同じように吐き出すシゲに、水野は思わず腰を上げかける。 「てめぇっ、それだけで・・・!」 「うん、最低やろ?」 なのに、シゲがあっさり認めてしまったので、水野の拳は行き場がなくなる。 水野は座り直しながら、シゲの髪の毛から落ちる雫を見るしかない。 「けど、俺それだけお前のこと好きやねん」 水野は全身の力が抜けるのを感じた。今、この男は何を言った? 「・・・・・・・・・・は?」 シゲは、まるで悪びれもせずにしれっと言い放つ。 「仲良しこよしのお友達じゃ、嫌やねん。お前の一番激しくて綺麗なトコに、触れるトコに居たいんや。お前の、トクベツで居たい」 水野は何て言ったら良いのか分からなくて、困惑気味に眉を寄せるしか出来ない。 シゲはその、水野の濡れた髪に触って拭いてやりたい、なんて思ったが、とりあえずは全て吐き出してしまおうと思い我慢する。 「せやけど、あの青い瞳(め)でしか見て貰えへんのも、正直きつかったわー。やからなー、俺、お前の一番近くに居てお前の一番深いトコに触れて、お前に思い切り憎まれて。ほんで、それでも笑って欲しいんよ、俺」 お前の笑顔はやっぱ綺麗やしな! そして歯を見せて笑う男に、何を言えと? 水野はただ両手を握り締める。 「何、言ってんの・・・?」 「何やろう?けど、俺はそうなんや。お前にあんなことできたんも、あれでお前が俺んこと、思いっきり憎んでくれへんかなぁって思ったからや」 それなら、シゲの思惑は大成功だったろう。じゃぁ、もういいじゃないか。はいさようならで、終わりじゃないのか? 水野の心情を読んだかのように、そこでシゲは困ったように笑う。 「言うたろ?青く燃える眼で見られ続けるんも、辛いって。俺な、部辞めた時みたいに、お前がそのうち許してくれんかなって、甘えてたみたいや」 「さいてーーーーな野郎だな」 半眼になって呻く水野に返す言葉なんてないけど、それでもシゲはまだ伝えなければならない。 「うん、ごめん。やけど、好きや。好きやから、怒らせよ思た時、抱こう思たんや。抱きたかったんも、ホント。好きやから」 照れも無く、ましてや反省の色も薄くこんなことをのうのうとのたまえる自分は、本当にどうかしていると思うけれど、それでもこれが本心だと思うから。 だから、そのまま伝えるしかないのだ。 「俺に、どうしろって・・」 傷つけたくて、大切で、怒らせたくて、笑って欲しい。 そんな混沌として、どう名前をつけたら良いのかも分からない感情を。 「許して?」 水野に縋るしか無い、我侭で勝手な自分を。 「たつぼんに酷いことして怒らせても、あの青い眼で思いっきり怒った後で、笑って?たつぼんの側に、いさせて?」 卑怯だと思う、他力本願も甚だしいと思う。水野にメリットなど一つも無い、勝手な気持ちの押し付けだ。 「単なる隣に、やなくて。たつぼんの中に、いさせて?」 水野を真っ直ぐに見詰めて、目尻を下げて微笑むシゲが、水野には悪魔に見えた。 そして、自分はとっくに悪魔に捕まっていたのだと思う。 「俺、すげー怒ってるからな」 「うん」 シゲは嬉しそうに笑う。 畜生、何が嬉しいってんだ? 「めちゃくちゃショックだったし、痛かったし、まだ痛ぇし。身体もだけど、もっと別のところが」 「うん」 「殺したいほど、てめぇが憎いと思った」 「うん、知っとる。そんな眼ぇしてたし」 シゲはやっぱり笑う。水野はふつふつと、はらわたが煮えてくるのを感じた。 「けど、お前が帰って来ないって聞いて、母さんがお前だってまだ中学生なんだから、何かに巻き込まれることだってあるって言って。ショックだったよ」 次に続けなければならない言葉に、水野は悔しくて涙が出そうだった。 「ざまぁみろなんて思えなくて、馬鹿みたいに心配になって、挙句の果てこんなとこに居て!」 「うん」 水野の中で何かが切れた。最近本当に押さえが効かない、と思いつつも、本日二度目のシゲの胸倉を掴み上げる行動に出る。 「何なんだよ、てめぇ!人のこと馬鹿にしてんじゃねぇぞ!何が憎まれたかった、だ!!何がそれでも笑って許して、だっ!」 「ちゃうて、許して笑って、や」 この順序は譲れない、とばかりに唇を尖らせるシゲに、水野は五メートルも離れてる人間に話すかのような大音量でまくし立てる。 「うるっせぇ!てめぇみたいな人間に付き合える奴がいるか!!てめぇみたいな奴、理解できるか!!この人間失格が!」 本当にそうだと思う。 まるで悪魔だ。自分のしたいことだけに忠実で、我侭で。憎しみと慈しみが同居している。 何かで読んだことが、水野の頭をよぎる。 悪魔は、欲望に忠実だと。悪魔は愛を知らないのではない。悪魔も誰かを何かを愛する。ただ、その想いにはストッパーが無いから、どこまでも傍若無人に自分勝手にその想いを育てるのだ。 相手の都合も人格もお構いなしに。 「あぁもう!!何でてめぇみたいのが居るんだよ!」 心底悔しげに言い捨てて、水野はシゲの胸倉から手を離す。シゲはまだ嬉しそうに笑ったまま、水野のほうに首を傾げた。 「許してくれるん?」 水野はシゲから僅かに身体を反らして、シゲを一瞥してから深く深く溜息を吐いた。まるで魂が出て行ってしまうかのように、深い溜息を。 許す?そんなもの。 シゲが心配で飛び出した時点で、大出血サービスで放出しまくったようなものだ。 「お前を許すくらいなら、三上に強姦されたほうがましだ」 「げ・・・っ」 投げやりに水野が堪えると、シゲは思いのほか衝撃を受けたようだった。 「たつぼん!あれはあかんって!!」 まだ湿る髪から水滴を飛ばしながら焦るシゲを眺めて、水野は僅かに溜飲が下がるのを感じた。 この程度で溜飲が下がるなんて、本当に自分は甘いと思いながら、本気で焦っているようなシゲに、苦笑が込み上げてくるのを抑えられない。 「たつぼん!三上は駄目や!たつぼんの幸せのためなら、渋沢なら考えるけど、三上は認めへん!!」 (仕方無いか) 悪魔に魅入られて、平静で居られる人間てのも、少ないらしいし。悪魔が気に入る人間てのは、綺麗な奴が多いというし。 それならいっそ、光栄だくらいに開き直ったほうが楽かもしれない。 お眼鏡に適ってしまったらしいのだから、もう仕方無いのかもしれない。 「どうして相手は絶対男なんだよ・・・」 「へ?たつぼんが綺麗やから」 ここ数週間で散々怒ったせいか、もう腹立たしささえ感じなくて、水野はただ嘆息した。 「もう、いいよ」 水野のその呟きに、シゲは耳を疑う。 「え、ほんま・・・?」 許してもらえないことなど、承知の上だったのに。許されることを望みはしたけれど、絶対に無理だと思ったのに。 目の前の水野は、何かを諦めたように苦笑している。数週間ぶりに見た、水野の笑みだった。 シゲは思わずぽかんとそれに見惚れてしまった。 「そう毎回切れるようなことされても、俺もたないからな」 水野のお人好しぶりに、シゲはさすがに自分の非人道振りが逆に浮き彫りにされて、ちょっと躊躇しないわけではなかったけれど、それでも、水野の気が変わらないうちに、ということを瞬時に考えてしまう辺り、やはり自分はどうしようもないのだと思う。 「わかっとる。言うたやろ?俺、たつぼんの笑った顔も好きやもん」 湿った髪に指を差し込まれて、自分よりも骨っぽい指の感触に水野は目を細める。 「ほんま、可愛えし・・・」 今日の夕方告げられた台詞に、柄にも無く胸が抉られる思いをした。 なのに今、その傷は跡形も無く消えた。 水野のたった一言で、傷は出来て、消える。 自分も水野にとってそうでありたいと、シゲはまた勝手な考えに至って、水野の髪の感触を味わいながら笑った。 一転して軽いな、おい・・・。爆。 |